牧野信一 3

 彼は徳利を倒にして、細君の顔を見返つた。
「未だ!」周子はわざとらしく眼を丸くした。
「早く! それでもうお終ひだ。」特別な事情がある為に、それで余計に飲むのだ、と察しられたりしてはつらかつたので、彼は殊更に放胆らしく「馬鹿に今晩は寒いな。さつぱり暖まらないや。」と附け足した。だが事実はもう余程酔つてゐたので、嘘でもそんな言葉を吐いて見ると、心もそれに伴れて、もつと何か徒らなことでも云つて見たい気がした。だけど、母も周子も、手際よく顔付きだけはごまかしては居たが――それは一層彼にしては堪らない同情のされ方で、普段ならばもう大概母が断わる頃なのにも関はらず、
「全く今晩は寒い、ひよつとすると雪かも知れない。」などゝ云ひ乍ら母は酒の燗をした。
「もう今日で五日位ゐになるかしら、お父さん?」と周子は彼に云つた。彼と母ではこれ位ゐのことでも口には出せなかつた。

 強ひては生活のかたちに何んな類ひの理想をも持たない、止め度もなく愚かに唯心的な私であつた。――いつも、いつも、たゞ胸一杯に茫漠と、そして切なく、幻の花輪車がくるくる廻つてゐるのを持てあましてゐるだけの私であつた。廻つて、廻つて、稍ともすると凄まじい煙幕に魂を掻き消された。
 私は、そんな自分を擬阿片喫煙者と称んでゐたが、私の阿片は、屡々陶酔の埒を飛び越えて、力一杯私の喉笛を絞めつけながら怖ろしい重味で今にも息の根を止めようとするかのやうな勢ひで覆ひかぶさることが多かつた。
 私の無上の悲しみは、私が、私の幻を幻のままにこの世に映し出す詞藻に欠けて、余儀なく、凡そ自ら軽蔑し去つてゐる筈の、在りのままの身辺事を空しくとりあげては、さまよへる己れの姿に憐れみを強ひられる嘆きであつた。地上で出遇ふ「悦び」や「悲しみ」――そして、あらゆる出来事に対して、何か私は縁遠い妄想感を抱いてゐるといふかの如き自覚! それ自体が、不断の嘆きであつた。そして、また私は、事毎に、この世で出遇ふあらゆる出来事に、在る間は、惑溺し、熱中し、根限りの現を抜かして、棄てられるまでは自ら先に離さうとしない執心に、因果な矛盾を感じるのであつた。私は長年の間、謙遜と諧謔と憧憬とをプレトン派に学び、エピクテイタス、マルクス・オウレリウス流に遡つてゐるにも係はらず、この劣等な学徒は徒らに営養不良に陥つたり、空しく神経衰弱に罷つたりするばかりで、己れの妄想を、理想! と称びかへるまで健全になり得なかつた。

「見物してゐるわ――」
「好興な話だな。――ぢや一番俺達の達者なところを見せてやらうか。」
「どうぞ――」
 と二人の芸妓は横を向いていつた。
「よしツ!」
 二人は浴衣を脱いで砂地に走り出た。煙草をふかしたり、手拭を頭に巻きつけたりしながら二人は、わざと悠々たる足どりで歩いてゐたが、四五間行つたかと思ふと、異口同音に、
「こいつあ、堪らねえ!」
「おツそろしい熱さだな!」
 と叫ぶがいなや、ワツ! といつて、煙草も何も放り出して一目散に波打ちぎはを目がけてころげ込んだ。
「さつきの人達の方が余ツぽど偉いわね。」
「あいつと来たら何でも口ばつかしなのよ。」
「大嫌ひさ!」
 二人の芸妓はそんなことをいひ交してゐた。