牧野信一 2

 私は、背に擦硝子を思つたゞけでゾクゾクとしながら、凝つと怺えて前の方の葉の落ちきつた痩せた木々が冬らしい白い空にくつきりと伸びてゐる姿を静かに見あげてゐた。――幸ひに毎日、風のない麗かな日が好く続いてゐたが、私の砂を口に含んでゐるやうな苛々病はもうそろ/\起りかけてゐた。これが最少し嵩じると私は、稀に散歩に出かけても瀬戸物屋の前が通り憎くなるのであつた。
 何処の家でも、もうとうに冬のカーテンを懸けてゐる。斯んなに鼠色に汚れた白い布などを引いてゐる家は一軒だつて見あたらない、これからは昼間でも寒い曇り日などには幕を掛けなければならないのだ、厚味のある重さうな何々色のカーテンをあたりに引き廻らせれば温かく落つく、硝子戸一枚だつて決して心配はいらない――と、いふやうなことを彼女は幾度も説明したが、私は自分から先きに云ひ出したのにも係はらず、と聞くと、私はあまりに乗り気にもならなかつた。そして、反つて私は彼女の提言を嘲笑ふやうな顔をしたりした。
「堪らないのは、このうしろの窓だ。」と、私は唇をもぐもぐさせながら云ふだけのことだつた。「幕の下にでも俺は、あの擦硝子を感ずると凝つとしてはゐられなくなりさうだ――何か他に好い工夫はないかな。」
 別段、反対する程の積極性もなかつたが私は、彼女がそんな重さうな何々色の布などを遥々と買ひに出かける姿を想像したゞけでも何だか憶劫だつた。

 大体彼は、生来健康な質だつたから、どんな医学的の知識にも欠けてゐた。だから、初めはこれに随分驚かされて、洗面の後暫くの間は何時も精神的な鬱陶しさを強ひられるのが常だつたが、それも今ではすつかり慣れてしまつて、どうかした調子に中途で収まりさうになると、故意に喉を鳴らして技巧的に吐き出すこともあつた。
 左様して彼は、毎朝日課のやうに、何となく洞ろな感じに苦しい、酷く騒々しい手水を使ふやうになつてゐた。
 彼の四歳になる長男は、毎朝その傍で父の異様な苦悶を見物した。そして、稍ともすればゲーゲーと喉を鳴して、その時彼がするやうに両手を糸に吊された亀の子のやうにひらひらさせて、その彼の苦悶の真似をした。――どんな種類の苦しみに出遇つても、まつたく堪え性のない彼は、その通りに毎朝、縁側の端の、洗面が終れば直ぐに取り片づけてしまふ流しにのめつて、いつも変りなくそんな格好をするのが習慣の一つになつてゐた。

「春子、春子、春子!
 おゝ、お春ちやん、よくこんなに早く来られたね。僕はさつきから随分待つて居たよ。お春ちやん、若し君が来て呉れなかつたならば、あゝ考へるのも怖しい。
 手紙は着いたの、
 あゝ、それやよかつた。
 ――おやおや君は泣いてゐるね、どうしたのさ、何が悲しいの、折角遇つたのに泣いては嫌だよ。
 君が泣けば僕だつて泣き度くなるもの……それが恋ぢやないか……ね、もう心は云ふまでもなく解り合つてゐるのだから、泣くのは止めやう!
 嬉し涙だつて! さう。
 僕のも嬉し涙だよ。