牧野信一

 夕涼みがてらの散歩の人々で西河岸通りはいつものやうに賑つて居た。夕べは未だ暮れ切れなかつた街の彼方が霧のやうに烟つて遠くの灯りが滲むで見へた。だん/\にその霧が屋根を伝つて眼の前に押し寄せて来るやうにも見えた。金魚屋の前などは後方から覗けない程人が大勢寄りたかつてゐた。植木店の盆栽の青葉は一枚一枚月の雫に浴して居た。
「随分賑やかね。ねえ綾ちやん、まだ早いから銀座へ行つて見ませうか。」と母は綾子の機嫌を取るやうにして促した。
「何か欲しいものはないの。先程の指輪はあれで、気に入つて?」
「え、もう沢山、別に欲しいのはありません。でもお母さん何か御用がおありなら行きませう。」
「さうね……」母は反つて困つてしまつた。「欲しいものがなければ仕方がありませんが――私は綾ちやんが何か考へてるやうですから、さつきのものが気にでも入らないのかと思つたのよ。」
「何か考へてゐるやうに見えますか?」綾子は自分の心が表情に現はれて居るのかと思つて驚いた。
「何でもなければそれでいゝのよ。」

 綽名だけは一人前――悪党きどりの不良少年――母島村長の懇望から三十人をけふ島送り――。
 未だ十三や十四の身空でオートバイ、洋服、熊、ガタ倉、黒、トガワ、青坊主、ヤセ馬等といふ綽名を持ち、ひとかどの悪党きどりで浅草公園を中心に新公園、寺院墓地、雷門、川崎銀行裏、五重塔等に屯して、かつぱらひやすりを働く不良少年の群には、所轄署に於ても一方ならず手を焼いてゐるが、今回小笠原の母島から上京した同村長がこれ等の不良少年を名もなつかしき母島へ伴れて行つて砂糖栽培に従事させ、丁年までには真人間にして還したいといふ希望を齎したので不良少年保護所から所轄署に依頼し、所轄署では×日の午後十時を期して×警部補指揮の下に和服が総出となつて公園附近をかり立てた結果札付きの不良少年三十名を取り押へたがその中でも比較的年が若くて質の好くない左の十五名を小笠原へ送ることゝなり、×日横浜出帆の郵船××丸で村長が伴れて行つた、母島では各農家に分配して使傭する筈。――

 八畳、四畳半、玄関三畳――間数はこの三間で、家の形ちは正長方形である。私は、この家の主人となつていつも八畳の何一つ装飾のない床の間の脇に坐つてゐた。この北側にも一間幅の窓があつて、此処も昼夜兼帯の硝子戸一枚だつた。だがこれは擦硝子なので、未だ幕を取りつけてはなかつたが、今では夜になると氷を背負つてゐるやうな感があつた。それに、どうも見た処が雨戸代りにはなりさうもない体裁だつた。
「こんなにまでしても体裁の方が大切なのかな。浅猿しい気がする。ボロでも安普請でも関はないが、斯んな見せかけは閉口だ。」と、私は、時々顔を蹙めて呟いだ。秋が冬に変るに従つて私は、それを頻々と繰り返すやうになつた。――冬になると私は、大概の日は歯が陶器のやうに浮いて、中でも擦硝子を見ると膚に粟が生ずるのであつた。歯質が幼時から悪く今では三分の二は義歯を入れてゐたし、いつも喫煙過度で舌がザラザラとしてゐた。冬の乾いた日が来ると私は、いつも口中に砂を含んでゐるやうな気持で、冷たく乾いたものを見ると直ぐに苛々させられた。普段それだけは手まめである髯剃りさへ、余程温かな湿り気のある日でもないと手が出なかつた。――これまでもの冬私は、そんな日には部屋を閉めきつて膚に汗を覚ゆる程盛んに湯気をたてゝ、そして吸入器の前で口をあけ通しにしてゐるやうなことが多かつた。