too fast

読まなければ演技が出来ない。すでに封の切れてゐるのを切る風をして中をとり出す。ね、後生だから読まないでよと、いよいよ切なげにミカエラの小声がいふ。が、開けばたちまち眼に入るのだから仕方ない。読むともなく読むと、あゝこれは一体何たることだらう。天下の二枚目ともあるオペラ一座のテナァ唄ひが、満員のお客の前で、他人の恋文を読まされてゐるといふ訳か、とさうおもふと、途端に妙に咽喉がつまつて声が出なくなつた――といふ話、嘘ではない。あのときぐらゐ切なかつたこともないと、そのミカエラ女優は私に話した。が、さういつたあとで、でもあれを持つてゐたので、とにも角にも穴をあけずに済んだのよ。やつぱり恋人のおかげだつたわ。かうなるともう私も黙つて謝まるより外はない。

 売り言葉といふものがある。こんなのをいふのだらう。よろしい、売家は買へなくとも売り言葉なら買へる。ではその拓務大蔵三井三菱へ勤めてゐる人間に保証さしたら貸しますか、と私はその横皺と縦筋とこんがらかつた鼻の上の格子縞のやうなものを目がけて切り込んだ。だがなか/\そんなことで動じるやうな婆さんぢやなくほゝゝゝゝといきなり甲高い声をあげて、ぢろり眼鏡の中からこつちを見据ゑながら、さういふ方達とお附合ひがおありになりまして? 保証といふのは判を押すことでございますよ。さあさういはれて見ると、私はふだんの心掛けを誤つてゐたのである。三、四の顔見知りがないではないが、店受け保証をさせるほどの懇意はない。ううと口詰まつてゐるうちに、婆さんの方でぴしやりと、格子を閉めてしまつた。この格子は玄関の本物の方の格子である。その格子の間から、婆さんの鼻の上の格子縞が、海草のやうに揺れて見えてゐた。向こうからはこつちが、判この押してない紙屑みたいに見えたかもしれない。

 井上信子老女史は、戦争中にも警察へ引っぱられたりしたのだそうである。「手と足をもいだ丸太にしてかへし」という句などがお気にさわったらしくと、今は笑っていられるのだそうだが、私などあの戦争中の自分を省みて恥かしくおもう。それだけに今度はもう自分を恥かしめるようなことはしたくないと考えている。だが老女史がその私の決心をからかうようにこう吟じられているのだ。
どのように坐りかえてもわが姿
 老女史はこれを「最近の心境」として示されているのだが、女史の姿の変らぬのは立派である。しかし私はぜひとも坐り直し別な姿にならねばならぬ。同感の士なきやいかに。
 私は久しぶりに「烈婦」という文字を、この老女史でおもい出した。